浪人生が合格する必要十分条件を得るために

Our efficiency in living as ordinary human beings depends on what we do with lots of information:
情報って生ものです。いちばん納得してもらいやすい例で言うと、たとえ本を買ってもその日のうちに読んでしまわなければ、おそらく一生読むことはありませんよね。ぼくの場合、もっと極端で、帰りの電車で開かなかった本は数週間後にゴミ箱行きです。もちろん読まずに、ですよ。MOTTAINAIですね。

ぼくが通っているS台予備校というのは、大学入試という枠組みの中で質的・量的に最高の知識・情報を提供してくれます。それはordinaryな浪人生から見ても絶対に間違いない事実です。

しかし、それはordinaryな学生が合格することの“十分条件”に過ぎません。学生がその情報を処理しきれなければその学生は大学に合格できません。

では“必要十分条件”を得るために、ordinaryな学生はどうすればよいのでしょうか。以下で2つの観点から具体的に考えてみます。

まず講義のノートについて考えてみます。講義のノートをうちに持って帰っても、本質的な意味で見返すことは出来ません。ノートに書いてあることは自分のアタマからひねり出したことではないからです。むしろ半分以上は先生の思考過程です。他人が自転車に乗っているビデオを見ることは、自分が自転車に乗れるようになるための参考ていどにはなるかもしれませんが、それだけでは決して自転車に乗れるようにはなりません。自分の身体的体験を通してしか技術・技能を会得することはできません。学生は先生の解き方を見たら、即座に真似して問題を解かなければなりません。「その日のうちに」なんて悠長なことを言ってないで、「いますぐ!」やらないと間に合いません。つまり講義中にやらないと間に合いません。

それでは、講義の内容を聞き逃してしまうという可能性が残ってしまいます。

そこで、講義の内容について考えてみます。10日ほど授業を受けてみて、まともに先生についていったら、情報量に圧倒されて、有益な情報を逃してまうということが判りました。これは「実験事実」であって、「自然はそうなっているのだからしかたない」と諦めるしかありません。一生懸命に講義をしてくれる先生方にとってこれほど最悪な開き直りもないのですが、いくら解りやすいノート・プリントも読んで血肉化することが出来なければ、僕にとってはゴミになってしまいます。つまりなにが言いたいかと言うと、自分にとって必要な情報以外は捨てる必要があるということです。MOTTAINAIですけどね。

これで辻褄が合うのではないでしょうか。ordinaryな学生がすべきことは、入学試験にとって大切なことでかつ自分が解っていない部分でかつ自分が消化できる情報だけを授業で聞き、新たに得られた知識をその場で何度も活用する。しばらくはこのスタンスで行ってみます。

受からないかもしれない?うーん、たぶん大丈夫。東大は6割とれば合格だから。


コメント:inordinaryな学生なら上記のような鬱陶しくてMOTTAINAIことをしなくても良いのかもしれません。つまり、講師に100%追随していって、100%消化して、そして100点満点をとる。世間一般では理III合格者なんかがinordinaryな学生に該当するのかもしれませんが、理IIIに受かった人もordinaryだとぼくは思います。だって、上のことを実践すれば「一回聞いたら解る人」じゃないですか。理III合格者とニアリーイーコールじゃないですか。さらに余計なことを書くと、人の話をいい加減に聞く人って結構(理数系の)勉強が得意です。うちの彼女もコレに該当しています(笑)悪く言えば協調性がない*1のですが、少なくとも理数系の学問には、向いています。ぼくが知っている理III合格者(と理Iに6完で受かった変な人)も全員そうでした。他人の話をあんまり聞きません。人文系の学問ではそうもいかないんでしょうが、理数系の科目は先生に付き合う必要なんてないんじゃないでしょうか。その裏づけにはちょっと足りないのですが、数学が出来なくて英語や国語が超得意で東大理Iに受かった友人はクソ真面目でノートまで全部キレイでした。そんな友人ばっかりで気後れしまくりなんですが、やるべきことがさらに見えてきました。ちなみに、ぼくはクソ真面目な人間なので、MOTTAINAIことをするのにはかなり勇気が要ります。

理数系の学問は予習がすべて―ワカラナイことをわかるために。

*1:人の模倣をしているだけなので自主性があるとはいえない。